2010年6月1日

民衆論―無名性の大地― 第4章

民衆論-「無名性」の大地-
 

4章 近代民衆の誕生<日本>

  

  

<はじめに>

  

 日本の近代民衆が、どのように立ち起こってきたのか。そのために、まず私は、日本文明の古代について述べる必要がある。

「日本文明」という言葉に、諸外国の人々は違和感を覚えるかもしれない。ヨーロッパ文明(西洋文明)に対応するものは「東洋文明」であり、日本は、文明圏であるアジア地域の中の、ほんのわずかな列島からなる、現在でも人口約12千万人の小さな地域でしかないからだ。「東洋文明」とは、インドと中国にその源流を持つ文明圏のことであり、ほぼアジア全域に広がる。また東洋文明圏の中でも「漢字」によって、また中国との関係によって文化を創造していった「漢字文化圏」または「東アジア文化圏」が存在する。日本は、その一角を占めているにすぎない。

 だが、それでも私がここで「日本文明」と呼ぶのは、以下の理由による。

それはまず、日本列島が、シルクロードその他によってもたらされた諸文化の「集積所」として存在し、それら集積された文化を、融合などの中で日本固有の文化として発酵させてきたこと。さらに、古代の王権がそのまま「天皇制」として、現在もなお歴史的命脈を保つ、世界でも類例のない国家体制であること。アイヌ語を含まない日本語が、比較言語学的に、どの語族にも属することが証明されない孤立言語であり、独自の言語発展を遂げてきたこと、などである。

アジアは、ヨーロッパと同様に考えられるべきではない。その歴史的経緯は、ヨーロッパ文明のように、相互交流の中で「一つの文明」を築き上げてきたのではなく、またアジア全域に「一つの宗教的権威」が君臨していた事実もない。つまり、アジアにおける文明の諸相は、それぞれ固有の様相を示しているのだ。

したがって私は、「日本文明」とは、たしかに「東洋文明」の一部ではあるが、他とは隔絶された文化内容を持つ、日本固有の文明の形態であると、述べておかなければならない。

  

  

  

1.「倭国大乱」から「ヤマト王権」へ-文化による国家創造

  

 私は、「第2章『幻想共同体』と古代民衆」の「13.『漢字文化』と『日本文明』」において、日本の古代文明の成立が、比較的、平和裏に進展してきたと概括した。ここでは、現代の考古学的見地や文献資料などに基づいて、それが、本当だったのかどうかについて、検証していきたい。

  

 「倭国大乱」とは、『魏志倭人伝(「三国志」魏書 東夷伝巻三十 倭人条)』などの中国の歴史書に記された、紀元2世紀後半に日本列島で起こった大規模な内戦状態のことを指す。3世紀末に編纂された『魏志倭人伝』では、「倭人」は、漢の時代から貢物を携えて朝貢してきており、『倭人伝』編纂時点で30カ国から使者を送ってきていると記されている。また、その歴史として、もともと男子王を中心としてきたが、倭国内部で騒乱が絶えず、「邪馬台国」の卑弥呼という女王を立てると、それが収束した。しかし正始8年(紀元247年)に卑弥呼が死ぬと、また騒乱が起き、卑弥呼の親族であった13歳の台与(トヨ)という女王を立てると、また内乱が収まった、とある。「倭国大乱」とは、この卑弥呼擁立以前の内戦状態のことを指す。『後漢書』巻八十五 東夷列傳第七十五には、「倭國大亂」とはっきりと記されており、その年代も「桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)」と明記されている。すなわち「倭国大乱」とは、紀元2世紀中ごろに起こり、紀元3世紀前半には終息していたことになる。

  

 日本史においては、卑弥呼の擁立による国家連合「倭国」の誕生が、後のヤマト王権への連続性を持って語られている。また、「倭国大乱」が「事実」であったことが、遺跡の発掘などによって「証明」されつつある、という。だが私は、ここで「倭国大乱」が、大規模な戦闘によって終結したものではないことを、まず「証明」しなければならない。

 その典型が、佐賀県東部にある吉野ヶ里遺跡だ。同遺跡においては、紀元前2世紀後半から作られはじめた、外堀においてはV字型で最深3メートルにも及ぶ二重の環濠と、同時期よりわずか後の、矢尻が刺さったままの受傷遺骨や頭骨のない遺骨が発掘されたことから、「倭国大乱」を裏付けるものとして注目が集まった。だが、注目しなければならないのは、彼らが戦闘で死んだであろう、その「時期」であり、ここでは、それが「倭国大乱」時よりはるか昔の、紀元前2世紀後半から紀元1世紀前半のものであるということだ。

吉野ヶ里遺跡は、紀元前4世紀(縄文時代後半)からはじまる高地性集落でもあり、最終氷期が終わって温暖となったこのときには、海面上昇により、有明海が遺跡の23キロメートルの距離にあったと推測され、海上交通の要所としてさらに大型化し、3世紀ごろに最盛期を迎えた。同遺跡からは、甕棺(かめかん)や石棺、青銅器類や鉄器類、勾玉やガラス製の管玉などが多数発見され、それらの特徴が中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けていることも分かった。また周辺部からは周辺地域で製造されたと見られる銅鉾も発見されている。とりわけ甕棺は、同時期の朝鮮半島における出土例との類似性が高い。

これらのことから、吉野ヶ里遺跡は、中国や朝鮮半島との交流拠点として栄えたこと、周辺の集団を従えた地域王国の中心地だったこと、などが判明した。だが同遺跡は、3世紀後半から4世紀にかけて急速に打ち捨てられるようになり、現在に至っている。

また、紀元前54世紀ごろからのものと見られる、福岡市にある比恵・那珂遺跡群は、那珂川と御笠川の間にある洪積台地上とその周辺部に散在し、比恵遺跡、日本最古の水田跡と、環濠跡を持つ板付遺跡、王墓と思われる甕棺(かめかん)や、多数の住居群などが密集する須玖岡本遺跡などによって構成されている。このため、この遺跡群もまた、北九州における別の地域国家の存在を証明するものとなった。

 これらの環濠設備は、縄文時代のものは出土例が少なく、弥生時代、すなわち稲作が伝来してからのものが多数、発見されている。すなわちそれは、稲作による「富」の誕生を意味しているし、環濠設備とは、その「富」を防衛する目的を持って作られたものだということになるし、稲作とほぼ同時に大陸からもたらされた方法でもある。

環濠集落とは別に、高地性集落というものもある。これは、住居跡もある場合もあるが、主に周辺の監視を目的とするか、戦乱時の砦的な性格を持って高台に設置された集落跡だ、といわれてきた。

 一方、受傷人骨は、豊中市の勝部遺跡など、大阪府でとりわけ多く発見されている。大阪湾沿岸部の受傷人骨を伴う墓は、弥生時代前期(紀元前300年~200年ごろ)で6例、中期(紀元前200年~紀元30年前後)では53例(2006年現在)が発見されている。また同様の時期のものとして、北九州や伊勢湾周辺でも発見されている。だが、弥生時代後期、つまり小集団が大集団としての地域国家に発展していく紀元2世紀以降の受傷人骨の発見は、極端に少なくなっていく。

  

日本全国では400余りの環濠集落が見つかっていることから、初期においては小集団ごとに分離していたそれらの集落が、やがてより大きな、魏志倭人伝によれば30ほどの、すなわち「国」と呼べるものに再編成されていったことが伺われる。

 だが、ここで問題となるのは、それらの統合や再編、さらには卑弥呼を頂点とする連合国家「倭国」の出現以降、ほぼ3世紀末にほとんどすべての地域において消滅する環濠集落や当時の遺跡において、卑弥呼登場以前の「倭国大乱」として特筆するような血で血を洗う内戦が激発していた発掘事例が、あまりにも少ないという事実だ。すなわち、発見される受傷人骨は、そのすべてが、2世紀後半とされる「倭国大乱」より1世紀以上も前の、小集団が大集団に、すなわち「小国(地域国家)」になろうとするときのものであり、地域国家成立後は、戦乱の痕跡を見つけ出すことは困難である。大阪府和泉市のかつては大阪湾に面していた観音寺山遺跡が、高地性集落であり、「倭国大乱」の時期も存続していたことから、その関係性が取りざたされたこともあったが、存続期間も長く、蛸壺なども出土していて、現在では、通常の漁業も営まれていた「生活の場」であったことが分かってきている。

 しかも、環濠集落であるにもかかわらず、戦争の痕跡のない集落も多数存在していることも、また特筆しておかねばならない。さらに環濠集落とはいえるものの、掘削した堀の土を内側にではなく外側に盛り上げている集落の遺跡も存在する。盛土が環濠の外側にあるということは、むしろ弓矢や投石を用いる外敵に有利であることは明らかだ。だから、これらの集落の環濠は、外敵を防ぐという防御機能は、はじめから問題にされていなかったことになる。また、静岡県の登呂遺跡など、水田や集落、高床倉庫等の跡はあるが、環濠施設そのものがない集落跡も多数発見されている。

したがって、集落を「環濠」で取り囲むことは、確かに防衛的な意味合いもあっただろうが、むしろ、水田に水を引く目的、集団意識を高め結束を促す目的のほうが強かったであろうことが推論されるのだ。高地性集落についても同様で、集落が「高地」にある理由は、その場所によってさまざまに分かれているといえる。

また高地性集落のひとつとして、兵庫県芦屋市の会下山遺跡があるが、そこからは紀元23世紀の、土を高温で焼いた跡が見つかり、鉄器などの生産活動の拠点であった可能性が高くなってきている。出土品にも鉄器が多い。明確にしておかねばならないが、当時の日本(倭国)には、まだ製鉄の技術がなかったのだ。つまり当時の日本には存在しない、先駆的な技術を持つ人々が居住していたということであり、それは朝鮮半島からの「渡来人」の集落、ということになる。いや、むしろ、渡来人こそが日本の文化を創造したという視点から見れば、彼らこそが「先駆的な日本人」であった、というべきかもしれない。しかも、それは、ほぼ会下山全域の1万数千平方メートルという広大な地域に、長期的に、ある集団が生活していたことを示す遺跡である。彼らが、そこで製鉄を行い、日本列島の各地に流通させていったとなれば、そこは軍事目的というよりも、むしろ生産活動と流通の拠点、ということになる。そうなれば、高地性集落そのものが、何であるのかが見直されなければならない。つまり、山城のような軍事目的のものもあれば、たんに見晴らしの良い場所を生活の話として選んだものもあれば、海上交通を監視する目的で作られたもの、生産活動の中心拠点として選ばれたもの、など実に多様になる。

また、高地性集落ではないが、東京都調布市にある根塚古墳の、紀元2世紀から3世紀前半のものと推察される長方形の墳墓から、朝鮮半島南部の伽耶地方で制作されたと見られる鉄剣が出土している。つまり、それは朝鮮半島南部の人々が日本海を超えて東日本に到着し、そのままこの地に定住し、埋葬されたことを示している。このように、朝鮮半島からの渡来人の集団のものと思われる遺跡は、日本列島各地の多数に上る。

つまり、鉄器などの製造技術は、まずそれを持って渡来した朝鮮半島の人々によって日本で製造がはじめられ、日本各地に流通させていったということだ。そして、やがてその技術が在来の日本人(倭人)にも伝授されていくようになる。鉄器の流通は、武器の製造も促したが、むしろ農業生産に革命的な進展をもたらしていった。一方、日本列島において砂鉄や鉄鉱山が発見されるのは、紀元5世紀以降まで待たなければならない。だから、製鉄の技術は伝わっても、鉄素材そのものは、朝鮮半島からの輸入に頼っていた。したがって、日本における鉄の歴史は、おおむね、まず紀元23世紀における朝鮮半島からの渡来人集団が、鉄剣などの鉄器そのものをもたらし、次に、紀元45世紀になると、板状に大量生産された鉄素材そのものが朝鮮半島から「輸入」され、次に、砂鉄が出雲などで発見され、鉄鉱山なども次々と発見されていくようになり、本格的な国内生産がはじまっていく、ということになる。

朝鮮半島南部の伽耶地方の金海遺跡には、日本にも送られた板状の鉄素材が大量に出土している。また、ここからは日本の「弥生土器」が、また吉野ヶ里遺跡の発掘品とほとんど同じである甕棺や銅器などが出土している。つまり、それは紀元23世紀ごろ、朝鮮半島には日本からの渡来者もいたことを示すものであり、活発な文化交流が行われていたことを示すものだ。

朝鮮半島からは、銅器、鉄器やその製造技術、また馬や馬具ももたらされ、その範囲は当時の日本の文化全般に及ぶ。一方、日本から朝鮮半島には、福井県の糸魚川流域から採取された翡翠が、朝鮮半島の各地にもたらされている。なぜなら朝鮮半島には翡翠の産地がなく、しかも糸魚川流域の翡翠は原石でも美しい、極めて希少な産物だったからである。

日本においては、鉄の歴史も青銅の歴史もほぼ重複している。それは、造船技術の発達とアジア情勢の緊迫化の中で、まず渡来人の手によってもたらされたことからはじまる。その鉄器も青銅器も、「刀剣」としての形はなしていたが、それが「武器」として使用されるときは、日本列島においては極めて短く、すぐに「祭祀」の象徴としての性格を強めていく。

  

 結論的にいえば、こういうことになる。

 つまり、環濠集落や高地性集落であることが、即、戦乱状態を意味していないこと。朝鮮半島からの渡来人は、先駆的な文化を携えて日本に定住し、集団として安定的な居住を行い、日本(倭国)各地にその文化を流通させていったこと。「倭国大乱」時に戦乱はほとんどなく、卑弥呼を女王とする連合国家「倭国」の誕生は、軍事によって決着したものではなく、各地域国家の「合議」によって誕生したこと、などである。

私は、そこに、すでに各地域国家に定着していた朝鮮半島からの渡来人の存在を見る。各地域国家の指導者たちは、アジア大陸の激変を、彼ら渡来人を通じて、すでに知っていた。「倭国」を創建するに至った彼らには、彼らの地である日本列島が、アジア大陸の東に存在すること、文化的にもまだ辺境の地であること、をすでに認識していた、と見てよい。だからこそ早急に「連合」して、力をひとつに結集する必要があった。地域国家がお互いに相争う内乱は、列島全域の力を弱め、朝鮮半島などからの軍事的脅威にさらされる懸念さえあった。というよりは、彼らは、何よりも、「連合国家」の創造により、その外交権を一本化して集中することで、より豊富で、より体系的で高度な技術を、中国や朝鮮半島からもたらされることを期待した。それこそが、自らを栄えさせる最良の方法であることを、彼らは知悉していた、というべきだろう。

  

 稲作文化の流入による「富」の誕生は、たしかに「富」や稲作のための「水」をめぐる争いを引き起こしはした。だが、それが戦乱となって、「富」や「水」を奪い合う「集団」対「集団」の存亡を賭けた対決は、日本列島においては、他文明と相対して考えて、かなり少なかった、といわねばならないだろう。まして、地域国家が誕生してからは、さらに少なかった。「稲作文化の流入→富の発生→戦乱の多発」といった、画一的な判断や教育は、避けなければならない。そうでなければ、「日本人」は「日本」を見誤ることになるのだ。

 重ねていうが、戦乱が少なかった理由は、当時の日本列島の各集団の「来歴」にある、といっておきたい。日本において「文化」を創造していった人間たちとは、すべて大陸からの「渡来人」である。そしてひとたび渡来し、日本に定着していった人々は、さらに新しい「渡来人」から、「新しい文化」を受け取ってきた。しかも、いつの時代にあっても「渡来人」の集団が、「侵略」や「富の収奪」を目的として渡来してきたことは一度たりともなかった、という考古学的事実がある。そして、新しく渡来してきた人々を「異質」「危険」な集団や人間として排撃した事実もまた、古代の日本にはないのである。それは、先述した観音寺山遺跡、会下山遺跡などの例でも示されているとおりだ。私は、客観的な事実を述べている。日本文明とは、中国文明、そしてそれをより積極的に日本にもたらしてくれた朝鮮半島の人々の恩恵によって成り立っている。その事実は、決して忘れるわけにはいかない。

  

 稲作に関していっておこう。それは、日本の稲であるジャポニカ種が、朝鮮半島に考古学的にも存在しないことから、朝鮮半島を経由せずに、直接、中国大陸から対馬暖流に乗った船(に乗った人々)によってもたらされたと考えられている。岡山県内の南溝手遺跡などでは、紀元前3500年より以前からジャポニカ種の栽培が行われていたことが、プラントオパールの採取によって確認された。しかし、計画的な、灌漑施設を含む区画された実際的な水田跡は、現在のところ、最古のものとして、福岡市内の板付遺跡や菜畑遺跡などで、紀元前45世紀のものが確認されている。すなわち、水田の発展は、北九州からはじまり、本土などに広がっていったと考えられているが、岡山県内岡山大学構内の津島岡遺跡群からも同時期の水田跡が発掘されていることから、現在のところ、稲作は、中国大陸から直接、北九州か西日本のあたりに伝来した、という以外にない。

  

 このような時期には、造船技術も発達していないことから、大陸からの渡来数は限られたと思われる。大陸、とりわけ朝鮮半島からの渡来数が格段に増加するのは、紀元2世紀以降である。これらの渡来は、「意識的」な渡来であった。

なぜなら、この時期からの朝鮮半島は、高句麗(紀元前37年~668年)をはじめとするさまざまな国が興ってくる激動期を迎えるからだ。それらの「国」は、当時の日本の地域国家から比べれば、まさに「大国」といっていい規模であった。高句麗の跡に、半島南方に、新羅(紀元前57年~935年)が興る。そして次に、百済(346年~660年)が興り、また伽耶と総称される小国家群も興ってくる。そして、中国じたいも、後漢(25年~220年)が内部腐敗によって動乱し、中心勢力となっていた宦官に対する批判派を弾圧する「党錮の禁(166年、169年、176年など)」や、頂角らが農民を主導した「黄巾の乱」が全国規模で勃発し、やがて後漢が滅び、魏蜀呉の三国時代(220年~280年)、さらに晋(265年~420年)の建国とその崩壊、という激動のさなかにあった。これらの動乱による中国からの亡命者は、朝鮮半島のさまざまな国に難を逃れてやってくることになる。そして、その朝鮮半島から、日本各地に渡来人が相次ぐのである。

56世紀になると、朝鮮半島各地からの人々の渡来は、さらに数を増し、高句麗、新羅、百済、伽耶地域から、それぞれのルートを通じて日本海を越え、日本列島の各地にダイレクトに移住してくる様子が見て取れる。具体的には「須恵器」と呼ばれる、ろくろで土器を製造し、高い温度で釜の中で焼くという、高度な技術による朝鮮半島由来の土器が、日本各地から出土してくるし、そこからは朝鮮半島独自の他の土器類も出土している。「須恵器」は初期の出土例は、きわめて朝鮮半島のものと同じ様式を持っている。それが、徐々に日本独自の文様をもつようになっていった。そのこともまた、「須恵器」が、はじめは渡来した朝鮮半島の技術者によって製造され、日本各地に流通されていたが、やがて徐々に技術が日本人にも伝授され、日本独自の土器となっていくことを示している。しかもその技術を携えてやってきた渡来人の来歴は、伽耶、新羅、百済からのものと思われ、実に多くの朝鮮半島の各地域から、近畿地方中枢域など各地に直接やってきて居住を構え、従来の居住人の集落に混在していた形跡が見て取れる。

  

紀元3世紀ごろまでは、朝鮮半島や中国の先進的な文化を取り込んで発展してきたのは、吉野ヶ里遺跡などに見られるように、確かに九州北部地域の地域国家であった。だが、3世紀を過ぎると、列島各地の環濠集落や高地性集落が次々と廃棄され、近畿地方を中心に前方後円墳が、日本列島各地(沖縄県、秋田県、青森県、北海道、兵庫県の淡路島を除く)に登場してくることから、「倭国」がヤマト王権によって主導され、各地の地域国家の独立が解消されていったことがうかがえる。

前方後円墳の最大のものは、現在の大阪府堺市に、5世紀前半に造営された大仙陵古墳(仁徳天皇陵)であり、古墳じたいの全長は486メートル、高さ35メートルであり、造営当時は3重の堀で囲まれていた。その容積はエジプトのクフ王のピラミッドにも並ぶものだ。それは、当時は海からも見え、海路をやってきた朝鮮半島などの使節にとっても驚きを持って迎え入れられたであろうし、倭国の国力を誇る、当時最大の建造物であった。その原型は、3世紀前半のヤマト王権の中心地であったと推定される纒向(まきむく/奈良県桜井市)にある纒向遺跡から発掘され、それが、日本列島各地に伝播していく。王墓の「墓制(古墳制度)」とは、その地域王国や地域集団がどこに帰属しているかを、古代民衆を含む万民に示す重要なモニュメントなのであり、それがヤマト王権発祥の前方後円墳に統一されたことは、少なくとも5紀には、北海道や東北部を除く日本列島が、ヤマト王権下に属することになったことを示すものだ。前方後円墳は、朝鮮半島南西部にも10程度、存在が確認されているが、それがヤマト王権の影響を受けたものかどうかについては、まだ定説がない。

いずれにせよ、それは、連合国家「倭国」の一地域国家だったヤマト王権が、やがて大陸との外交権を手中にし、主に朝鮮半島からの先駆的な文化の積極的な受容と交流によって「文化力」を上げ、「倭国」の中心勢力となり、「連合国家」から「統一国家」へと脱皮していったことを示している。

  

 5世紀になると、ヤマト王権は、朝鮮半島の百済とより接近するようになっていく。百済もまた、ヤマト王権を求めていた。つまり、大陸からの先進文化をいちはやく摂取し、より一層の中央集権化を図りたいヤマト王権と、新羅などの侵攻に悩まされ、自国の防衛の後ろ盾を求めていた百済との思惑が、一致していたのである。12世紀前後に天台宗の皇円(1074年ごろ~1169年ごろ)が記したという歴史書『扶桑略記』には、厩戸皇子(聖徳太子)の摂政となって法興寺(飛鳥寺の前身)を建立した蘇我馬子(550年ごろ~626年)が、塔の心中である「刹柱」を立てる儀式の際、百余人の者とともに「百済服」を着て臨み、皆がそれを喜んだ、という記載がある。他国の服を着て重要な儀式に臨むことじたいが「反逆」であって不思議ではないが、「皆が喜んだ」ということは、当時、百済の文化とは、倭国の指導者階層の誰もが認める最先端の文化であったことを証明している。法興寺は、このとき、アジアの最先端文化を結集し、百済をはじめとする多数の異邦人、渡来人が結集する「国際文化交流センター」ともなったのであった。

  

ところで現在の鹿児島県付近を中心とする九州南部の隼人族(隼人王国)は、ヤマト王権とは異なった文化、つまり、稲作の育たない火山灰質のシラス台地を拠点として、狩猟採取を主業とする生活文化様式を持っていた。言語も、ヤマトとは異なっていたと考えられている。また隼人は、「日本書紀」に登場する「熊襲」と同じと比定されている。彼らの同族、つまり同じ文化と言語を持っていた人々は、鹿児島地方を中心に、種子島、屋久島、五島列島、九州東部の日向地方にまで広がっていた。

隼人族は、ひとたびはヤマト王権の勢力下に入ることを容認する。だが、ヤマト王権は、「水田」のない隼人の土地に、「律令制度」の一環である、税を米で取る「班田収授法」の画一的な適用(646年以降)を強行しようとしたことから、隼人族は、自らの文化の解体と米が取れないという死活問題を抱えることになる。彼らが反乱したのは、まさに、そうしたヤマト王権の中央集権的な「制度の強行」によるものであった。だが、「隼人の反乱(720年~721年)」と呼ばれる最終的な反乱が鎮圧されたことを以て、隼人族はヤマト王権に完全に従属することになる。隼人族は、その狩猟生活で養った「勇猛果敢さ」から、その精鋭が選抜され、ヤマト王権中央を護る重要な任務などにも着くことにもなる。隼人は、神に奉納する舞踊なども担当していることから、彼らが中央政権に信任されていたことは明らかである。王を守り、神を称えることは、シャーマニズム色の強い時代にあって、最重要の職務である。それは「天孫降臨」の伝承が、九州南部の高千穂山、宮崎県の高千穂町などに残り、「日本書紀」などに神武天皇が、同じ九州南部の日向の地から「東征」した、と記されていることと関係があるのかもしれない。「日向の地」とは、まぎれもなく「隼人の地」であったのだ。いずれにせよ、隼人族は、ヤマト王権と強い絆で持って結ばれていたのである。それはまた、隼人の文化をも吸収・融合して、より両者の結合を強めてきたともいえるだろう。

  

こうしてヤマト王権を中心とする「倭国」は誕生した。しかし当初のそれは、まだ連合国家的な色彩が強いものであった。だからヤマト王権が、次に行ったこととは「律令制度」の完成による中央集権体制の確立であった。それには百済の滅亡という、思いもよらなかった出来事も関わっている。「天皇」を中心とする中央集権体制の確立は、激動のアジア情勢の中で生き残るためにも、ぜひとも成し遂げなければならないことだったのである。

ここで見てきたことは、日本の古代が、戦乱によって創造されてきたのではなく、アジア大陸からの新しい文化の積極的な受容と交流によって、すなわち「文化」によって国家を創造し、「文化」によって国家の統一を成し遂げてきた、ということだ。ここに「文化立国日本」の原点がある。「日本人」は、そうした歴史にこそ誇りを持つ必要があるだろう。

  

  

  

2.「万葉集」と「天皇」の誕生、及び古代日本の自然観

  

 「萬葉集(万葉集)」とは、現存する日本最古の和歌集である。ほぼ7世紀後半から8世紀前半に詠まれた歌を、大伴家持(718年ごろ~785年)が最終的に編纂した、という説が有力だ。全20巻、約4500首からなるこの和歌集は、天皇から、「防人」と呼ばれる九州・太宰府の防衛兵、東国(ほぼ現在の「日本アルプス」以北・以東を指す)の農民らの歌までを網羅し、日本の古代人の精神と文化を知る大きな歴史的遺産となり、今日まで多くの人々の心を捉えてきた。

 ここではまず、万葉集に収録された和歌が詠まれた時代について、見ていきたい。それは律令制の導入による中央集権体制の確立、つまり「天皇制」が完成する時期と時を同じくする。万葉集には、そうした時代状況が巧みに読み込まれている。しかし、そうでありながら、その「おおらかさ」と、決して隠すことのない「熱い情愛」、そして東国の人々の素朴な表現は、日本人の精神風土の原点ともいえる性格を有している。

  

 律令制とは、中国から輸入された、刑法(律)と行政法(令)を中心とした制度であるが、その根本には「王土王民」思想がある。つまり、すべての土地と人民は、ほんらい王のものであり、王のもとに万民は平等である、とする思想のことであり、その思想のもとに制定された各種の法の施行が「律令制」ということになる。日本における律令制は、まず天武天皇(在位637年~686年)により発令され、大宝律令(701年)によって日本的なものとして完成を見る。

それはまず、万民へ一律に耕作地を与える「班田収受制」がある。それによってヤマト王権は、戸籍の作成と土地の計測を全国に発令し、神社や寺院の所有する田畑以外は、すべてそれぞれの身分に応じて一定の土地を与え、耕作権を託した。また個人単位で、コメの課税を行った。布やその他の農作物、塩、鉄製品なども基本的にコメ換算にして課税され、ここに江戸期まで続く日本の租税制度の基本が誕生する。他にも徴兵制を敷き地域単位で軍団を作り、官僚制度を整え、ここに日本の「国家」としての諸制度が誕生することになる。

  

 律令制の導入は、孝徳天皇(在位645年~654年)の時に行われた「大化の改新」(645年)において、実質的にはじまる。大化の改新とは、後に天智天皇(在位661年~672年)となる中江大兄皇子(なかえおおえのおうじ)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり/614年~669年)らによる一連の政変を指すが、蘇我入鹿(そがのいるか/~645年)の暗殺などによって、政権を牛耳っていた蘇我氏らの豪族支配から脱し、これによって律令制の施行を準備し、中央集権体制を固めることになる。

 その背景には、朝鮮半島の動乱がある。ヤマト王権と強い友好的関係を築いていた百済は、高句麗や新羅の侵攻によって存亡の危機にあった。ヤマト王権は、大陸の強い後ろ盾を失いつつあり、一貫して続いてきた豪族らによる「連合的色彩」を残し、彼らの専横を放置しておくことは、そのまま国際関係の中で地位を低下させることになり、国家としての自立さえ危ぶまれたのだった。だが660年、百済はついに滅亡。661年、復興を図る百済の遺臣らによる強い要請によって、ヤマト王権は遠征軍(水軍)を派遣するが、663年、白村江の戦いにおいて、ヤマト王権・百済遺臣の連合軍は、唐・新羅の連合軍に敗れるのである。このとき百済の遺民は、数多く日本に亡命してきている。668年には、同じ唐・新羅の連合軍によって高句麗も滅亡し、ヤマト王権は孤立し、唐の脅威にもさらされることになった。こうして中江大兄皇子は、北九州に大宰府(現在の福岡県太宰府市・筑紫野市)を置き、九州沿岸などに防人(さきもり)を派遣して、日本の防衛にも当たることになる。遣隋使、遣唐使は、以前から続いていたが、ヤマト王権が「日本」と国号を定め、遣唐使を派遣する際に、唐に対して名乗るのも、この7世紀後半である。

  

日本における「王土王民」の思想は、日本独自の「天皇」の誕生によって名実ともに完成する。最初に「天皇」という呼称が用いられたのは天武天皇のころであり、天皇は、神そのものとも位置づけられた。

それは、たんに「天皇」という呼称の登場だけを意味していない。かつては「氏(うじ)」を持っていたとも考えられているヤマト王権の王は、この「王土王民」思想に基づいて、氏姓(うじかばね)は、神である天皇が人民に与えるものであると規定し、自らは氏姓を消し去ってしまったのだ。ここに日本の天皇制の本質がある。天皇は、氏姓(うじかばね)を持たないことで「天」そのものから降り立った存在となり、同時に、氏姓を与えられていない奴婢を含む「大地」としての古代民衆そのものともつながったのだ。そうして、実質的な為政者たる、氏姓を与えた家臣たちの利害からも超越した存在となり、相対的で現実的な利益や欲得からも解放され、「国家創造神」とその歴史的本流としての地位を不動のものとしていく。

その地位は、以降、武家が政治の表舞台に立った時も変わらなかった。なぜなら、新しく権力を得た彼ら武家たちは、新たな権威体として自らを飾るよりは、すでに存在する天皇という「権威」の承認のもとに、実質的に国家を支配した方が、より安定する政権を維持できたからだ。だからこそ、天皇制は、今日まで永続する「国家的権威」として存在してきたのである。

したがって天皇は、人民(天皇を除く一切の人々)に権力者として振舞った期間は少なく、雲の上の権威者として存在し、基本的には世襲されてきたし、氏姓という「素性」を人民に与える存在としての天皇は、いわば人民という「子」の「父」であった。この日本古代においては、天皇にとって、古代民衆は「いとおしむべき宝の存在」とされている。そうして家臣も古代民衆もまた、天皇を敬愛の対象として慕っていたというべきだろう。

そこには確かに、儒教などの影響を見ることができる。だが天皇にとって、民衆を「宝の存在」として認識したことは、「第2章『幻想共同体』と古代民衆」の「13.『漢字文化』と『日本文明』」において指摘しておいたように、日本においては、王権が民衆を、つまり民衆があらかじめ持っていた技能を求めていた、ということに他ならないと、私には思える。それは、聖武天皇(在位:724年~749年)の発願により、745年に製作が開始された、東大寺大仏殿の大仏(盧舎那仏像)建立において、民衆の自主的な参加を求める一方、強制は絶対に避けるよう指示したこと。また、その高度な製作技術を得るために、「民衆を煽動する人物」として一度は弾圧していた行基(668年~749年)のもとに結集していた多くの民衆(彼らの中には渡来系民衆が数多くいた)の技術力を得るために、行基を日本初の大僧正に任命し、建立の指導者としたことでも分かるだろう。

  

万葉集は、まさにそうした時代における、天皇や貴族と、古代民衆の歌の集大成であった。

その第一巻第一歌は、万葉仮名で書かれた、雄略天皇(在位456年~479年)の次の長歌よりはじまる。

毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母」

※読み:()もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳(をか)()()ます兒() 家聞かな 告()らさね そらみつ大和の国(やまと)は おしなべて われこそ居()れ しきなべて われこそ座()せ われにこそは告らめ 家をも名をも

※意味:良い籠(かご)を持って、土を掘る良い道具を持って、この丘で菜(な)を摘む娘よ。あなたの家柄はどこか、答えてほしい。大和の国のすべては、私が治めている。私は告げよう、家柄も名も

このように、天皇が村の美しい娘に求愛する歌が、万葉集の最初を飾ることは、極めて特異なことといわなければならない。雄略天皇は考古学的に実証される最初のヤマト王権の王(天皇)とされるが、彼もまた、多くのかつて地方王権の王であった豪族の勢力を弱め、中央集権化を急いだ権力者であった。したがって、天皇が詠んだ最古の「御歌」として、万葉集の最初に置かれたのは、当然といえる。

だがこの歌では、そのヤマト王権の王自らが、名前も分からない娘に声をかけ、彼女の持つ籠や道具を褒めて気を引き、「自分も名のるから、あなたも名を教えて欲しい」と呼びかけている。そこには人民に対する強権支配の匂いは、まったくない。「王土王民」の思想が、もし日本由来の思想であるなら、その王は、こうした歌を詠んで娘の気持ちを確かめるまでもなく、当然のように娘を従わせたことだろう。つまり「王土王民」の思想とは、中央集権化の必要性から外部から持ち込まれたものであり、ヤマト王権から日本へと移行する時代にあって、日本の王権は、民衆を強権的に支配することはなかった、と見ていい。

それは、平城京跡から発掘された木簡にも垣間見ることができる。下級役人の休暇届を記した木簡には、「洗濯をしたいから休暇が欲しい」「足が痛いから休暇が欲しい」などと記されたものが多数見つかった。また地方から徴発された農民が逃亡したという木簡も多数出土している。奈良県文化財研究所の主任研究員である馬場基氏によれば、「足が痛い」理由とは、「脚気(かっけ)」であり、白米食の過食が原因だという。また「逃亡民」が多いことは、逃亡しても生きていける環境があった、ことを示しているという。そこからは、王権による民衆への強権支配の面影は、さらに遠ざかることになる。日本の古代が、王権による民衆への搾取と強制の歴史であり、民衆に困窮を強いる政体であったとする認識は、根本的に見直されなければならない。それはヨーロッパ文明の側から、また中国文明の側から見ても、極めて特異な文明の出発の仕方であったといえるかもしれない。

  

万葉集は、「相聞歌」といわれる恋の歌にあふれている。統計によれば、全単語6505語のうち、自分を意味する「わが」が970回、相手を意味する「きみ」が739回、恋人や妻を意味する「いも」が513回、「恋ふ」が424回、類似する「恋(こひ)」が167回、「恋ひし」が50回、「恋ひ渡る」57回、「思ふ」が400回、「逢ふ」が396回…と、なっている。

  

君が行く 道の長手を繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも

※意味:あなたがこれから行こうとしている長い道を、手繰り寄せて畳んで、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい

狭野弟上娘子(さぬのおとがみのおとめ)は平城宮において、天皇に側近する女官であった。その彼女は、高官であった若き中臣宅守(なかとみのやかもり)と恋に落ちる。だが、宅守は越前国に流罪されてしまう。その理由は、政情に絡むとも「重婚の罪」によるものだともいわれている。この歌は、まさにこれから恋人が流罪地に赴こうとするときの歌である(以降、万葉仮名での表記は省略する)。「長い道を焼き滅ぼす天の火が欲しい」。なんと直接的で激情あふれる恋の歌であろうか。

  

畏(かしこ)みと 告(の)らずありしを み越路(こしぢ)の 峠(たむけ)に立ちて妹(いも)が名告りつ

 ※意味:(もう言うことさえ)恐れ多いのだと、ずっと告げずにいたが、越路の峠に差し掛かったときに、(恋しさに耐えきれず、思わず)あなたの名を叫んでしまった

 これは、流罪先に行こうとするときの、中臣宅守の歌だ。越前国とは現在の石川県と福井県北部あたりのことであり、都である奈良からは果てしなく遠いように思われた地の果ての国でもあった。「み越路の峠」とは、近江国と越前国を分ける峠であり、宅守は、いよいよ故郷にも恋人にもついに別れることになってしまった。「妹」とは、もちろん狭野弟上娘子のことだ。

 恋し合う二人の激情は、別離に臨んで、何とあふれるばかりに吹き出したことか。

  

  (あかね)さす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖(そで)振る

 ※意味:あかね色の(日の光が)差している紫の花が咲き乱れる天智天皇の御料地である締野で、あなたはそんなに袖を振っておられるけれども、野を守る監視人が見ていますよ

 あまりにも有名な額田王(ぬかたのおおきみ)の歌である。この歌は天智天皇が蒲生野(がもうの/現在の滋賀県東近江市あたり)で狩りを楽しんだ時の宴席で詠まれたものとされている。額田王は後に天武天皇(在位:673年~686年)となる大海人皇子(おおあまのみこ)の妻となっていたが、その兄でもあった中江大兄皇子(なかえおおえのおうじ/後の天智天皇)にも愛されていたとされる。

  

紫草(むらさき)の 匂(にほ)へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

※意味:紫の花があまりにも似合うあなたは素敵で、人妻になっているがゆえになお私の恋心は募るのです

これは、その大海人皇子の返歌である。ここで額田王を「人妻」と呼んでいることから、大海人皇子は、兄に額田王を奪われたことになる。しかし、このとき額田王はすでに40代。これは宴席での座興の歌ということもできるだろう。だが、いずれにせよ、天皇が主催する宴席でさえ、ともすれば権力者同士の心に溝を作りかねない、このような恋の歌が楽しまれていたことは特筆に値する。

  

これら相聞歌の淵源には、広く民衆の間で行われていた「歌垣(うたがき)」がある。歌垣とは、奈良地方はもちろん、ヤマト王権の及ぶ各地で、春先になると若い男女の民衆が野に出て、お互いに恋する相手に対して呼びかけあう歌の場のことだ。想う娘に対して、男が歌う。それで娘は、彼に返答の歌を送る。そうして合意が成立すれば、野の夜の静寂の中で結ばれあった。なんとのどかな、なんとうららかで色のある春の夜であろうか。75調の日本独自のリズムを持つ歌は、そのころから育まれていったと思われる。

日本の宮廷文化は、こうしてあらかじめ民衆が持っていた文化の上に花開いていった。そうして、王や貴族も、民衆から隔絶することなく存在していた。したがってそれは、「天皇制」とは、日本の「古代民衆」という大地の上に誕生していったことを示している。次に述べる「防人の歌」などは、九州の大宰府などに赴任する前や、赴任地での宴席で詠われたものを筆記したものが多い。なかには「詠み人知らず」という歌もある。彼ら民衆は、ことあるごとに、そのときどきの身や心を詠い上げ、お互いに共感しあっていった。「歌」は、つねに、そうした心身ともに交流する「場」の中に存在した。そこでは、支配層も民衆も、別け隔てなく交流していたのである。

  

では、「防人の歌」に触れてみよう。

  

旅衣(たびごろも) 八重(やえ)着重ねて 寝のれども なほ膚(はだ)寒し 妹(いも)にしあらねば

※意味:旅の衣を幾重に重ねて寝ても、なお寒い。(なぜならそれは、いつも抱いていた)妻の温かさではないのだから

春とはいえ旧暦の2月(現在の3月)のころ。防人に赴く旅の夜は寒い。「ああ、おまえが横にいて、おまえを抱き締めることができたら、こんな寒さもないだろうに…」と切々と歌っている。詠み人は、東国の「望陀郡(まくだのこおり)の上丁玉作部(よほろたまつくりべ)国忍(くにおし)」となっている。彼は「望陀郡(現在の千葉県の一部)」の「玉作部(珠を作る人々の集団)」の人であって、「くにおし」という名の民衆である。

  

天地(あめつちの)の いずれの神を祈らばか 愛(うつく)し母に また言(こと)問はむ

意味:天と地のどちらの神に祈ればよいというのか。(無事に家に帰って)また愛しい母と話すことができるためには

詠み人は「埴生郡(はにふのこおり)の大伴部(おおともべ)麻与佐(まよさ)」。彼もまた東国の、現在の千葉県あたりにいた「まよさ」という名の民衆である。東国の民衆による防人の歌は、実に素朴に、切々とした心情を歌い上げる。もちろん、万葉集には、国を守る気概にあふれた歌がないわけではない。だが、彼らは、圧倒的に妻や子や親を恋しく思い、ときには防人として送った太守を、自分は熱のある病に犯されているのに「悪しけ人」だ、とさえ不満をぶつける。これは、天皇に献上された歌集である。その歌集に、防人になったことに対する嘆きが、何の問題もなく収められている。

  

最後に、これも有名な歌をあげておこう。

  

あをによし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく 今さかりなりけり

都であり故郷である、奈良の美しさと繁栄ぶりを讃え詠んだ歌である。詠み人の小野老(おののおゆ)という人は、九州の太宰府に赴任する大伴旅人(おおとものたびと/665年~731)に従った次官級の役人である。これは太宰府にいたころに、故郷である奈良を懐かしんで詠んだ歌といわれる。

  

私は最初、万葉集がこのように、なぜ貴族から民衆までの生々しい身体表現さえ伴った恋と愛の歌にあふれ、ときには不義の恋さえ詠われ、なぜ兵士でありながら望郷の想いや兵役の悲しみ、親や妻子に対する恋情を多く詠む歌が収録されているのか、それが不思議でならなかった。もし天皇による支配が、強権支配体制であったのであれば、このような歌は採用されないばかりか、詠んだ者さえ罰を与えられたであろう。なぜならそれは、神の代理人たる王を、また神そのものを冒涜する歌と位置づけられたであろうからだ。

万葉集の特徴は、それだけにとどまらない。ここではあえて挙げないが、景勝の地を、自然の美しさを詠い上げた歌が非常に多い。「あをによし…」は、その代表例である。

  

万葉集の時代とは、自然と人間が、まだ一体であった時代であった。当時、「藤原京」「平城京」と続く都市が建設されていったが、それらはすべて国家による計画都市であり、ヨーロッパ文明に見るような城壁で囲まれた都市国家は、古代日本には存在しなかった。もちろん環濠集落にその一分を見ることは可能だ。だが、古代における日本の住居は、民衆も支配王権も、みな自然の中に存在していたし、自然と切り離されて人間が存在したことはなかった、といっていい。しかも、ヤマト王権は、統一国家の創造のために、伝来した仏教を守護し広めようとはしたが、民衆への宗教の強制は、まったく行わなかったのである。

だから、万葉集の時代の支配層も民衆も、同じように、「神」「自然」「人」のすべてを、まったく融け合った存在として認識していた。いや、認識するよりも前に、当然のこととして受け止めていた、といったほうがいいだろう。

万葉集には「天皇」が「神」であることもまた、当然のこととして詠われている。しかし、天皇は、同時に「生身の人間」としても、その死を嘆き悲しみ、恋うる対象としても詠われているのである。だからこそ、恋も愛も、東国の兵士の嘆きも、自然の所為として眺められていたのであった。天皇でさえ、東国の兵士の悲しみに同情したものと思われるのだ。

  

万葉集の歌の数々が、私の心を撃つということは、そのような「私」の心の奥底、つまりDNAに秘められながら、歌に刺激されて湧き出そうとする、古代の、自然と未分化であったころの人間の心を撃つということであろうか。私たちは、思えば、ずいぶん遠くまで来た。人類が、こうした時代の「人間」であることは、もはや不可能であろう。

だがしかし、私は、こうした優れた古典文学が存在するおかげで、「私」という存在の、また「日本文明」の源郷を発見することができる。「愛する」ということが、私によって「抱き締めたいほど愛する」ということになるとは、こうした日本の古代民衆の魂が、私の中に眠っていたということなのかもしれない。いずれにせよ、私を含む日本文明に生きてきた「日本人」は、こうした古典作品に眠る「魂」から、新しい何ものかを紡ぎ出し、創造していかなければならない。私たちは「個」を生きているだけではない。「人類」として、その歴史の連続性の中で育まれ、今日、存在しているのである。

  

  

  

3.仏教界の堕落と「私有」概念の登場

  

 王権によって保護され続けた仏教界は、やがて堕落への道を歩んでいくことになる。「仏教」そのものが堕落したのではない。宗教的権威者として登場した僧侶たちが堕落をはじめるのだ。仏教が正式に日本に伝来(仏教公伝)したのは、538年とも、552年ともいわれるが、いずれにせよ、6世紀中期ごろ百済から日本の王権にもたらされたものである。王権による仏教の守護には、従来から神事に携わってきた物部氏ら古神道派の反対も根強くあったが、最終的には蘇我氏ら崇仏派が勝利し、律令制のもと、仏法尼僧に官職を与えて活動を保証する「尼僧令」などが制定される。そして「鎮護国家」の思想として仏教を捉え、仏教思想を国家統一の基板とする聖武天皇によって、741年、全国に国分寺・国分尼寺が置く発令が出され、名実ともに日本は仏教国になっていく。

 王権は、特定の宗派を優遇したわけではない。東大寺を本山とする華厳宗、興福寺や薬師寺を本山とする法相宗、唐招提寺を本山とする律宗などが、この時代の中心的な教派であった。それぞれの教義の内容については割愛するが、いずれも精緻な理論によって組み上げられた、「一切衆生を救う利他行」を修行の基本とする大乗教である。そうであるがゆえに、日本の王権は、仏教を、まず支配階層の理念を統一し、民衆を糾合する、国家統治哲学として用いたのである。だから当時の日本の仏教各派は、それぞれが独自の教団を持つ「宗派」ではなく、相互の交流も行われる「学派」に近い存在であったといえるだろう。各寺社には、王権によって、僧侶の生活と寺院の財政を確保するための田畑、耕作民やその他の職能民も配属されていたが、彼らは即、信徒を指すわけではなく、王命によって寺社のために働く人々のことを指す。

東大寺創建の後の765年、女帝である孝謙天皇(在位:746年~758年)に発願により西大寺が創建される。これは、孝謙天皇の病気を平癒したことで功績を認められた弓削道鏡(ゆげのどうきょう/700年ごろ~772年)が、強く天皇に進言したためであるという。道鏡は、後に仏教界の最高位たる「法王」を拝命し、親族を大納言など高官に任じて専横体制を築こうとするまでになった。さらに彼は、豊前国宇佐神社(大分県宇佐市)より「天皇を道鏡に譲るように」との神託を得たとの虚偽の情報によって、ついに天皇になろうとの野望さえ抱くまでになる。仏教界の最高権威者が「神託」を用いる、とは奇妙なことのように思われるが、天皇や貴族などの支配階層や仏教僧などの知識人層は、仏教を学び修行していたからといって、従来からの日本の神々を否定したわけでも、改宗したわけでもない。仏教には、もともとそれぞれの地元の神々を、仏教と仏教を修行する者を守護する善神との位置付けを与えるゆとりを持っていたし、「仏」はすでに実体から離れた抽象的存在であったこともあり、彼らには「神仏」として同等に扱われていたのである。だからこそ、仏僧もまた神官などとともに、病気平癒の祈願・祈祷も行ったのである。当時の医療行為とは、何よりもまず、この「祈願・祈祷」が中心であった。仏教が古神道と並列に置かれたことは、後の「神仏習合」と呼ばれる、仏教と古神道の混合現象をもたらしていくことにもなる。初期における神仏並列化は、「神仏混淆」とも呼ばれる。

もちろん「神託は虚偽である」との、和気清麻呂(わけのきよまろ/733年~799年)の上申によって、道鏡の野望は断たれた。だが道鏡は、日本の仏教界にあって、仏教本来の「民衆救済」という精神を忘れ、王権の庇護を利用して私利私欲にまみれた最初の宗教的権威者であった、として日本の歴史に刻まれることになる。だが、欲望を剥き出しにしていったのは、何も道鏡だけではない。はじめから王建の庇護を得て登場した日本の仏教界は、日本の支配層に「知識」と「教養」を与えてはいったが、その宗教哲学の根幹である「民衆救済」とは、多くの場合、たんに「理念」に留まるものであった。彼ら各宗派の僧侶たちは、むしろ王権の庇護を利用して、彼ら自身の勢力の拡大と政権内部への発言権の獲得を増していこうとしたのである。

 仏教界の堕落と腐敗は、以降も続いていく。その主な理由は「荘園制」とも関係する。

  

 日本の荘園制は、ヨーロッパのそれと同等ではない。日本において完成した律令制であったが、それはすぐに、平城京の造営、多数の寺院や大仏などの建立によって、税収の不足という制度的問題を抱えていくことになる。それらの国家的事業は多くの税収と、多くの民衆の労働力を必要としたが、民衆の徴用には限度があったし、多くの民衆の徴用そのものが農業などの各種生産に支障をきたしていった。そして増税に対しては、民衆は逃亡によって応え、当然、税収は増加することはなく、むしろ困難をきたしていったのである。

 そこで王権は、開墾を奨励し、税収の回復と増加を狙うことになった。723年「三世一身法」という、開墾した土地は本人から三代までの期限付き私有を認める律令修正法が発布されたが、効果は薄かった。そこで743年、天武天皇は、新たに開墾した土地に関して、永年の私有を認めるという「開墾永年私財法」を発布したのであった。この法令に、真っ先に飛びついたのは、あらかじめ資本力を有していた貴族、寺院、地方の豪族らであった。こうして、ひとたびは天皇のものとされた日本の土地は、畿内を中心に、大規模な土地の「私有化」がはじまっていくのである。これを「初期荘園」と呼ぶ。その労働力として、彼らは、王権の失政によって逃亡した民衆を雇用したのである。王土王民(公地公民)思想のもとに置かれた、王権が直接支配する「公田」もまた、11世紀には開墾地や私有地である荘園と同じように「名田」として再編成され、律令制は崩壊し、それまでは各個人に対して行われていた税の徴収は、土地単位に対する徴収に変化していく。

  

 桓武天皇(在位:781年~809年)は、肥大化していった寺社勢力から政権を守るために、784年、長岡京(京都府長岡京市などの付近)を造営して遷都する。だが、天災や近親者の不幸が続き、この遷都を「凶」であったとして、10年後の794年には、さらに平安京(現在の京都市内)への遷都を決行する。こうして日本の歴史上もっとも長い、約390年の歴史を持つ「平安時代」が訪れることになる。平安時代の荘園主である貴族は、10世紀初頭になると、荘園を管理する「国司」である自らが荘園を直接管理することを放棄し、代わりに傘下の下級貴族や役人を「国司」の代理人の権限を持つ「遥任(ようにん)」として派遣し、荘園の管理と運営を任せるようになっていく。そうして自らは、潤沢な税収を背景に「王朝文化」の担い手となり、民衆そのものから大きく乖離していくのである。

 平安貴族の栄華とは対象的に、民衆世界は混乱を極めていく。それまで民衆の上に君臨していたのは「神である天皇」であったものが、荘園主の寺社や、国司の権限を代行する遥任や、富豪農民として権限の代行を行った「田堵(たと)」など、現実的な顔を持つ人間にとって変わったからである。とりわけ開発の主導権を握ったのは、流浪農民を雇い入れて、積極的に開墾を進めたり、他から田を借りて耕させたりして、富を築き、台頭してきた新興富豪農民であった。また中央から冷遇されていた地方貴族や地方豪族などもその任に預かった。

都では不遇を強いられていた下級貴族は、誰もが国司になりたがった。国司となった下級貴族らは、直接、赴任地に行い「受領(ずりょう)」となって、権力と財力の増大を図るものもいれば、管理権限を地元の地方貴族、地方豪族や新興してきた富豪農民などに任せて、彼らから税の一部を取って散財に耽る者も現れてきた。また開墾地などを手に入れた豪族たちは、競うようにして中央貴族や勢力のある寺院や神社に土地を寄進していくようにもなる。しかしその寄進は形式的なものであり、要するに寄進を名目に、貴族への安定的な収入を保証する代わり、実質的な土地の支配権を手に入れることが目的であった。

 貴族であるこれまでの支配層の、民衆からの乖離とは、彼らが民衆に直接的に関与することが一切なくなり、納税の安定化や増収を期待する存在であるだけになったことを示している。それは、つまりは現実的に民衆を支配する「受領」や、現地の実質的な支配者である田堵などの力を強めていったし、暴力的な搾取にさえ関心を払うことをしなくなっていった、ということである。

そればかりではない。実質的な支配者である彼らは、領主的な性格を強め、貴族への安定的な収入の保証と引き換えに、管理権限の強化を狙い、警察力、軍事力などの一切を手中にしていくし、抗争によって他の荘園などの領地を奪うことさえ行うようにさえなっていく。

 そして強大な領地を持つに至った寺社は、自らの土地と富の防衛と拡大のために、僧兵と呼ばれる武装集団まで雇い入れることになる。のみならず、平安時代末期には、興福寺、延暦寺、東大寺など広大な寺社領地を擁する寺社は、お互いが抗争して領地の拡大に乗り出すまでになるのだ。また神社に属する武装集団は、神人(じにん)と呼ばれた。寺院や神社は、武装しただけではない。彼らは富の積極的な運用を計って、農民に種や苗を貸し付けて高い年利を得るなど、高利貸しの主役にまで躍り出ることになる。こうして日本の仏教界は、決定的に堕落していく。

中でも日本仏教界の最高峰に躍り出た天台宗の腐敗ぶりは、目にあまるものがあった。

日本の天台宗の基礎を築いたのは、最澄(767年ごろ~822年)である。彼は、空海(774年~835/日本の真言宗の開祖/弘法大師)とともに遣唐使の留学僧に選ばれ、8047月に中国に出発。9月に到着した彼はただちに天台山に登り、湛然(妙楽大師)の直弟子であった道邃(どうずい/生没不詳)らから天台宗の教義を学び、帰国した。法華経はすでに日本にもたらされていたが、日本においてその宗教哲学体系を整備し、完成させたのは最澄である。そして彼は、王権の庇護によらない、最初の日本の宗派創立者となったのである。彼の教説は明確である。すなわち法華経の原理に照らし合わせて「すべての衆生は成仏できる」と説いたのであった。朝廷は、806年、最澄の天台宗を、彼の求めに応じて公認し、ここに南都六宗(当時の中心的な宗派/法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)と同格の宗派として隆盛を迎えていくことになる。最澄は、道邃と同じように、日本の諸宗(南都六宗)を論破し、法華経の優位性を立証した。彼の死後、最澄の通訳として唐に同行した義真(781年~833年)の代になってはじめて、比叡山に戒壇(授戒を授ける場。当時、授戒がなければ公的に「僧」とは認められなかった)を置くことを許され、義真が初代天台座主となる。こうして日本の天台宗もまた、他の諸宗と同じく王権の庇護を得る存在となった。ここから堕落がはじまる。

以降の天台座主たちは、しだいに密教的要素や真言的要素を教説に取り入れるようになり、その教説は融解し勢力を失っていった。だが、10世紀、良源(912年~985/18代天台座主/慈恵大師)になると藤原氏ら有力貴族と手を結び、本山である延暦寺の整備を行い、末寺を整備し、寺社荘園の拡大に努め、再び隆盛を見ていくことになる。しかし、その教説の混乱は、多くの別派を生み出した。とりわけ宗内の権力闘争に勝った円仁門流(山門派)は、993年、円珍門流(寺門派)の僧約1000名を追い出し、寺門派は、三井寺(正式には「園城寺」/滋賀県大津市)を本拠地にして、互いに僧兵を繰り出しながらの武力抗争を繰り広げることになる。そしてついには、良源の後、最高権威である「天台座主」は、有力貴族である藤原氏の嫡流に譲り渡して権力の安定化を行い、座主の世俗化さえ慣例化させていったのであった。天台宗が隆盛を見たのは、こうした権力との癒着、武力による荘園の拡大と収益の増大、それによる私兵である僧兵の大規模軍団化が、その理由である。そして、その裏で、法華経を最高峰と位置づけた教説は汚濁し、宗教哲学としての明示性・純粋性を失っていったのである。

平安の都は栄華に酔いしれていた。日本最古の長編小説として名高い『源氏物語』は、こうした平安時代中期の貴族の様相を描いている。だが、こうして王朝文化の栄華と引き換えに、日本の民衆への武力支配と経済支配がはじまり、思想は混乱をはじめていくことになる。

  

 一方、仏教が民衆に浸透していったのは、「神仏習合」によってであった。仏教が王権の庇護を得て国教化に近い立場になっていくと、それぞれの土着の「氏神」を祀る神社を有していた地方の豪族たちは、それぞれの神が、ときには神の身を捨ててでさえ、仏教に帰依(自己の心身を託すこと)したがっている、と述べはじめ、王権はその要請に応えて、8世紀初頭から、各地の神社に「神宮寺」を置くようになる。これらの動きは土地の私有化が公認されて以降、さらに広がっていった。それは、「神(=天皇)への奉仕」という概念が律令制の崩壊によって失われていったことにも由来している。こうして古来より「神」のもとに集っていた民衆も、仏教に近づいていくことになる。だが、それもまた仏教の宗教哲学としての混乱と堕落を意味するものであったことは、疑う余地はない。

  

 いずれにせよ、ここに中世日本は、天皇という「権威」と、やがて武士へと発展していく実質的な民衆の支配者の「権力」との、分裂がはじまっていく。それは、王権が自らの安定と引き換えに行った、「私有」概念の積極的な運用にはじまった。権威と権力の分裂、そして私有概念の一般化こそが、「近代民衆」を準備する。だが、日本における近代民衆が、明確に台頭するためには、さらに激しい社会的混乱を経なければならない。

  

  

  

4.「武家政権」の誕生と民衆世界

  

 民衆が暴力的に搾取された、とはいってもそれはすべての土地においてそうだったわけではない。中には、自らの土地を守るために集団で武装する農民も登場してきた。また荘園などの領地の支配者は、農民と協同し、土地の防衛に当たったりもした。そうして農民の中には武装民の長として、他の民衆を従えていく者も登場してくる。東国においては、とりわけ彼らが武士として成長していくことになる。つまり、武力を持った者が強く、武力を持たない者は、その支配に屈した。したがって、このとき日本の中世世界は、それが「悪党」であれ、「強盗」であれ、武力に依存して勢力を伸ばそうとしたのであり、民衆世界を取り巻いていた、これまでの「神=王と民衆」という一元的な古代世界観が、根元から崩壊したことを意味している。

 王権を守る軍事集団は、ヤマト王権成立当初から存在していた。とりわけ、王権の親衛隊的存在としては「大伴氏」がおり、国軍的存在としては「物部氏」がいる。だが、彼らは軍事に特化した貴族層ではない。実際に、軍事を専門職とする「武家」が頭角を現していくのは、平安時代における荘園制の発達によって、彼らの土地を武力で他からの侵入から守り、ときには武力で他の荘園地を奪うという軍事的緊張や騒乱が増してきてからのことである。

9世紀末から10世紀初頭にかけて、地方の荘園から中央政権に収める官物(租税物)を強奪する事件が多発した。また官物の運輸を担う「蹴馬(しゅうば)」と呼ばれる集団もまた、それらの強奪から荷と身を守るために武装した。そうして力をつけた蹴馬自身が、今度は他の輸送途中の官物などを奪う群盗(強盗団)に化していったのである。官物が強奪されたのは、陸路だけではない。瀬戸内海などの海路においても、海の民が「海賊」となって強奪する事件が多発した。

また、ヤマト王権は、征夷大将軍を立てて、つねに「蝦夷地(えぞち/東北以北)」領土の拡張と、その民衆への武力的帰順を促していったが、囚えられ王権への帰順を認めた民衆は、強制的に支配領域内に移住させられた。これらの集団を「俘囚(ふしゅう)」と呼ぶが、狩猟に長けた彼らは武力においても長けていた。9世紀末、その俘囚の反乱が、各地で勃発しはじめたのである。その理由もまた、国司や受領の私的な収奪である。

荘園の成立とともに、王権は、古代から各地に置いていた軍団を廃止したが、それは武力的空白地域を各地に生み出すことにもなった。各地の軍事的蜂起や強奪事件の横行は、こうしたことにも理由が求められる。また農民らの離散も多発した。王権による、税収の安定と増加を期待して行った私有概念の積極的な運用は、結局は、自らの権力の弱体化につながったばかりか、納税が「神への捧げ物」であるという意識を彼らじたいが手放したことになり、古代における王権と民衆の蜜月時代、つまり万葉のおおらかな精神風土の崩壊にもつながっていったのである。

こうした民衆の反乱や離反といった動きに対して、朝廷(以降、ヤマト王権を「朝廷」と呼ぶ)側は、荘園の実質的な監督者である受領に、大幅な軍事・警察的裁量権を与えることによって防ごうとした。このときに、群盗征伐などで頭角を表したのが下級貴族などである。彼らは、朝廷側の軍事権を独占することで、一挙に権力を増していく。群盗の発生は、とりわけ朝廷の力が及びにくい東国に多く、武士団の多くは、まずこの東国において急成長を遂げていく。新興勢力となった富豪農民とも手を結び、俘囚とも結んで軍事技術を手に入れながら、武装して領地の支配権を手に入れた彼らは無条件で王権に心服したわけではない。彼らが求めたものは、まず何よりも「権利」と「自立」であった。武士団は民衆を圧政下に置くというよりは、むしろ王権から離反した民衆と手を結んで地歩を固めていったのだ。そうした背景があったからこそ、武士団は勢力を得ていったのである。

その動きは、「権力」と「権威」の二つともを奪取しようとし、天皇という権威を否定する反乱にも結び付いていった。その端的な例が、次の「承平天慶の乱」である。

平将門(たいらのまさかど/生年不詳~940年)は、東国の武士団の支持を背景に関東一円を支配下に収め「新皇」を自認。つまり短期間ではあったが、独立国を創建したのである。朝廷側の官軍は、将門軍と互角の戦いを強いられたが、最終的に、「勝利は官軍にあり」との情報を流して、将門支配下の民衆の支持を取り付け、940年、将門を打ち倒した。これを「平将門の乱」と呼ぶ。

また、下級貴族の藤原純友(893年ごろ~941年)は、海賊の鎮圧を目的に伊予国(現在の愛知県付近)に赴任していたが、次第に海賊の側に立つようになり、936年には彼らの指導者になって1000艘以上の船団を擁して瀬戸内海の制海権を手に入れる。彼らは、摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部付近)に乗り出して襲撃したばかりか、淡路国(淡路島)、讃岐国(現在の香川県付近)、九州の大宰府まで襲撃し、略奪を繰り返した。だが、これも941年には朝廷の討伐隊によって壊滅する。これが「藤原純友の乱」であり、同時期に起きたこの二つの反乱をあわせて「承平天慶の乱」と呼ぶ。

これらの反乱は、朝廷側を驚愕させ慌てさせた。それを平定したのは、朝廷が「勲功(名誉と富)」を与えると呼びかけて参集した、全国の武士団である。ここに朝廷が公認する「武家」が誕生する。平氏、源氏、藤原氏は、このとき「武家」として登場し、以降の中央政権に大きな影響を与えていくことになる。

  

この内、もっとも早く武家政権を築き上げたのは、平氏(平家)である。白河天皇(在位:1073年~1086年)は、朝廷内部の抗争に打ち勝ち、8歳の我が子である善仁(たるひと)親王を天皇に擁立(堀河天皇/在位:1086年~1107年)して譲位し、自らは「上皇」として院政を敷いて政権を握った。この院政は、次の鳥羽天皇(在位:1107年~1123年)まで続く。この白河上皇に仕えたのが、平忠盛(たいらのただもり/1096年~1153年)である。このとき延暦寺ら寺社は、僧兵の武力を背景に「強訴」を繰り返し、朝廷からさらなる権利の獲得を要求し、ときには無理難題さえ持ち込んできたが、白河上皇は、平忠盛率いる武士団の力によって、これを抑えた。忠盛は異例の昇進を繰り返し、最終的には「刑部卿(けいぶきょう)」という司法権の全権を与えられるまでになった。彼はまた、日宋貿易にも尽力して朝廷の財力の確保と、自身の財力の拡大にも成功し、平家政権の礎を築いた。また鳥羽天皇崩御後の後白河天皇(在位:1155年~1158年)の時代になると、後白河の反対勢力による「保元の乱(ほうげんのらん/1156年)」という内乱が起きるが、忠盛の長男である平清盛(1118年~1181年)は、この内乱を収めてさらに権力中枢に迫る。1159年、再び後白河勢力(後白河は上皇となって院政を敷いていた)を倒そうとする内乱が起きるが、清盛はこれも征伐。後白河によって天皇になった二条天皇(在位:1158年~1165年)の厚い信任を得て、天皇の後見人となり、最終的には「太政大臣(だじょうだいじん)」という最高位にまで上り詰める。平氏は、このとき全国に500余りの荘園を持つまでになり、当時の銀産出の中心地であった伊勢の銀山を押さえ、瀬戸内海の海賊ら海の民も従えて制海権を手に入れ、海外諸国との交易権を掌握する。清盛は、北九州・博多の港を整備し、さらに大輪田泊(おおわだのとまり/現在の神戸港西部)を改修して一大交易拠点とし、日宋貿易をさらに活性化させた。またその近くの福原(現在の神戸市内)への遷都を計画するが、これは最終的には実行されなかった。

平氏の台頭とは、一見、天皇による政権を補佐する動きに見えるが、実質的には、軍事権、警察権、制海権、交易権などのほぼ全権を手中にし、朝廷を意のままに動かす、「武家政権」の開始を物語っている。しかし見落としてはならないのは、その背景に、広範な民衆の支持があったということだ。例えば、日宋貿易を安定的に行い拡大し得たのは、瀬戸内海の海の民の支持があり、平家による政権が彼らの富を保証したからである。平家が厳島神社(広島県廿日市市)を厚く守護し荘厳したのも、瀬戸内海の海の民の信任を得るためであったということができるだろう。

「平家にあらずば人にあらず」とさえいわれた平家だが、その滅亡も早かった。次の鎌倉時代になって、琵琶法師によって民衆の間にも広く詠われた『平家物語』は、こう語る。

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけ(猛)き者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」

 清盛亡き後、朝廷側と平家政権の不和の隙間を突いて、平家打倒のために挙兵した源頼朝(1147年~1199年)は、自立心の強かった関東一円の武士団を糾合し、不遇下にあった同一族を結集し、平家を西国(西日本)に追い詰める。以降、平家は「一ノ谷の戦い(11843/現在の神戸市内)」において頼朝の実弟である源義経(1159年~1189年)の軍によって敗走して以来、瀬戸内海を西走するが、「屋島の戦い(11853/現在の香川県高松市内)」に敗れ、「壇ノ浦の戦い(11854/現在の山口県下関市内)」によってついに滅亡する。なぜ平家は、瀬戸内海に逃れたのか。それはやはり彼らを支持していた瀬戸内海の海の民による勢力を当てにしたからであり、同時に、源義経軍が勝利したのも、奇襲戦法などの理由もあるが、やはり海の民を味方に付けたからであった。とりわけ紀伊半島南東部に拠点を持っていた熊野水軍、瀬戸内海の諸島を拠点にした伊予水軍などが源側に付いたことは、勝敗を決する上で重要な出来事だったといえるだろう。

 こうしてついに、本格的な武家政権である「鎌倉幕府」が誕生するのだ。だが、彼らじたいが「幕府」と呼んだわけではない。源頼朝は、天皇の権威に対して一応は帰順する姿勢を保ってはいたが、本音は天皇の持つ権力の弱体化を目指したし、朝廷からの権力的自立を目指した。そして関東一円の武士団を支配下に収め、鎌倉を「幕府」ともいえる政権中心地として整備し、日本の権力を朝廷側と二分した。頼朝は、1180年に、まず鎌倉に自身の館でもあり、政務をも取り仕切る「大倉御所」を設置。そこに「侍所(さむらいどころ)」を置いて、近辺に「御家人」の宿館を設置させた。頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ、彼に従った武士団は「御家人」と呼ばれることになる。頼朝は、そうしてまず自身の権力の安定を確立した上で、平家の滅亡を図ったのであり、1192年に天皇から「征夷大将軍」を拝命してより、本格的な武家社会の建設に乗り出していく。頼朝に対立して朝廷側に付く気配を見せた義経は、奥州・平泉において自立国的な振る舞いを見せていた奥州藤原家三代目の藤原秀衡(1122年ごろ~1187年)を頼るが、頼朝は、この勢力を、義経、奥州藤原家もろとも打ち倒し、鎌倉時代がここにはじまる。

  

 では、そのときの日本の民衆とは、どのような存在だったのだろうか。

 11世紀中ごろ、儒学者であった藤原明衡(ふじわらのあきひら/989年ごろ~1066年)が著されたとされる『新猿楽記』には、「武者」「受領」「田堵」と同じ扱いで、「博打」「巫女(かんなぎ)」「鍛冶」「鋳物師」「天台学生(がくしょう)」「相撲人」「馬借」「大工」「医師(くすし)」「陰陽師」「和歌」「遊女」「絵師」「楽人」「商人」などが並べられている。つまりこれは、平安時代末期においては、まだ支配・被支配の別や、職業や家業による差別が存在していなかったことを表している。しかし民衆における芸能は発達してきており、同書によれば、剣を振り回して走りまわったりする「呪師(のろんじ)」、大陸よりもたらされた奇術や幻術などを披露する「唐術(からじゅつ)」、玉を自在に操る「品玉(しなだま)」、田植えの際の祭から派生して芸能となった「田楽(でんがく)」などの大道芸的な見世物など多数に上る。

それらは、民衆の集まる「市(いち)」などを中心に恒常的に行われていくようになる。貴族もまた、民衆と同じように、これらの見世物を楽しんだようだ。「市」は、当初、王権が認めた場所と日時のみに開催されるものであったが、律令制の崩壊とともに、交通の要所などに、それぞれ自発的、定期的な「市」が開催されていくようになった。すなわち、「四」の付く日に開催される市は「四日市」であり、また午前中に開催されるものは「朝市」であり、その場所に中世の商業都市が発展していく。また、それぞれの商業者は「座」と呼ぶ同業組合的な組織を持つに至り、都市部を中心に、ごまから油を作って灯油などとして売る博多などの「油座」、京都・祇園の「綿座」「錦座」など多数の「座」が生まれ、寺社や朝廷への奉仕を行う代わりに、その勢力を背景に大幅な権利の獲得と、生産から流通までの商売の独占体制を敷いていった。「座」はまた各地に誕生した商業都市単位にも、「町座」「里座」などと形成されはじめ、商業都市の自立的な諸権利の獲得をも目指すようにもなっていった。

それは、つまり民衆の自立を促す動きである。「座」とは、寺院や神社において「座」の構成員になることを許された座の指導者が一堂に会する「場」であり、その「場」で諸権利の獲得や商業の独占に必要な事項が話し合われていった。それは、中世ヨーロッパにおける「ギルド」にも似たものと解釈されることが可能だろう。朝廷や有力荘園主に対する寺院や神社の強訴は、彼ら「座」の構成員としての、寺院に所属する「寺人」、神社に所属する「神人」などが主体となった権利の拡大を目指す示威的な動きも多かった。

民衆の身分構成は、律令制の時代には、「平民」と呼ばれる大多数の自由民と、「奴婢」と呼ばれるかなり少数(人口の5%程度)の非自由民に分れていたが、10世紀前半には、これらの制度は実質的に廃止されている。「非人」と呼ばれる差別民が登場してくるのは、鎌倉時代後期からである。それまでは、死者の埋葬、動物の解体処理などを行う民衆は、寺院や神社に所属する集団であり、その職業にむしろ誇りすら持っていたものと思われるし、差別されたという痕跡はない。彼らは、街路の掃除や警備、造園業、病人や障害者の世話係、芸能者とともに「民衆そのもの」であった。

ようするに、民衆の職業は実に多岐に渡る。製鉄、製綿、製紙、製塩などの生産者は、同時に農民や漁民であった可能性も高く、職業の専門性はある程度確保されていたとはいえるが、それぞれの生産民として固定化していくのは、もう少し先のことである。彼らの「座」の内、「寺人」、「神人」などは、寺院や神社の勢力を背景に通行税の免除を得て、自由に畿内を中心とした全国を渡り歩いた。また、大工、絵師、楽人、遊女、その他の芸能者などは、朝廷や鎌倉殿からの承認を得た「証文(多くは偽書であったが)」を振りかざしながら、これも全国を渡り歩くことができた。また、それらの職業を担当したのは何も男性に限らず、女性もまた同じように職業を持ち、全国を渡り歩いていたのである。

 すなわち、この時代、「貴族」や「武士」は政治的な権力を握ってはいたが、民衆はその支配に屈していたわけではなく、「納税」などの義務さえ果たせば、かなりの自由度を持っていたし、それはもはや権威や権力に無条件に従う存在ではなく、彼らと対等に渡り合う力を持っていたということができるだろう。すなわち荘園制の時代とは、貴族化した平家一門など一部の武家を除いて、武士も農民も、のちに「非民」や「河原者」として差別されることになる民衆も、同じように差別されることはまだなかったのである。

 民衆は、こうして自立していくが、やがて武家政権の安定化と、神道思想における「穢れ」の意識的固定化、また仏教における「宿業」といった思想の浸透とともに、民衆自身が自らの内に「差別」を育んでいくことになる。

  

  

  

5.鎌倉仏教の登場と「近代民衆」の誕生

  

 鎌倉幕府は、東国の支配権確立の後、平家の持っていた荘園領地を後白河上皇との折衝によって奪い、さらに勢力を拡大した。そしてそれらの支配地域に、御家人を配置し、国単位には「守護」、荘園などの単位には「地頭」といった警察権、裁判権を持つ税収執行者として、実質的に、御家人に支配権を手渡した。それでもまだ西国は、基本的に朝廷の支配下にあった。

 1221年、皇位継承問題などにも注文を付けはじめた鎌倉側勢力の伸長に危機感を持った後鳥羽上皇(天皇としての在位:1183年~1198年)は、鎌倉側に付いていない武士団を糾合して、源政権の打倒の「院宣」を発令。これを「承久の乱」と呼ぶ。

1219年、第3代将軍となっていた源実朝(みなもとのさねとも/1192年~1219年)が内紛で殺害されると、源家は断絶し、代わりに源頼朝の妻、北条政子(ほうじょうまさこ)が事実上の最高権力者となって、北条一門がこれを支えていた。「朝廷」という権威の前に御家人たちは動揺したが、政子は、鎌倉殿への「恩と奉公」を命がけで述べ、御家人を結束させた。そのときの政子の言葉を、『吾妻鏡』は次のように記す。

 「皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ」

 意味:「皆、心を一つにして聞きなさい。これは私の最期の言葉である。亡くなられた右大臣将軍頼朝様は、朝敵を成敗し、関東に国を創建して以降、官位といい、俸禄(財産)といい、すべてお前たちに与えてきたのである。その恩は山よりも高く、海よりも深い。お前たちにも、報恩感謝の志が浅いはずはない。しかし、今、朝廷側は、反逆者の讒言によって、羲にそぐわない命令を出した。名を惜しむものは、早く反逆者の秀康、胤義らを討ち取って、鎌倉殿三代の恩に報いなさい。もし宮廷側に付こうという者がいるなら、今すぐ申し出よ。そうでないなら、命を賭けて恩に報いなさい」

 政子はまた、「朝廷側に付くならまず私を斬って捨て、鎌倉に火を放ってから行け!」とも述べた。その政子の渾身の叫びによって、御家人は結束した。そして、北条朝時(ほうじょうともとき/1193年~1245年)を総大将とする鎌倉軍は、朝廷群を破り、ついに京都を占拠する。このとき、平安の安楽に酔いしれていた京都の貴族も民衆も、皆、驚愕し、逃げ惑ったという。誰もが、武士が朝廷に背くとは、思ってもみなかったからである。そして後鳥羽上皇は壱岐に、順徳天皇(在位:1210年~1221年)は佐渡に流罪されるなど、討幕を図った一派はことごとく斬首または流罪となって、以降、「六波羅探題」が京に置かれ、朝廷は完全に鎌倉側に監視されて、屈することになる。そればかりか、このとき上皇と彼に付いた貴族や武士団が持っていた全国の膨大な荘園などの所領約3000か所は、すべて鎌倉幕府に接収され、御家人に配分される。こうして、日本は、ほぼ完全に武士政権の支配下に収まるのである。

これは、日本における、まさに最初で最後の「武力革命」であった。それは以降の武士間の内乱である「関ヶ原の決戦」とも、最後の武家政権が瓦壊した「明治維新」とも様相を異にする。鎌倉側の軍は、最終的には19万人にも及んだと見られる。これは、たんに武士団が糾合しただけではない。そこには多くの武装した農民などの民衆も参集したはずである。したがって、この「武装革命」もまた、世界の多くの革命がそうであったように、民衆の支持を基盤としたことは明白であったといえるだろう。

  

 民衆世界は、このように激変に次ぐ激変を重ねていた。平安時代末期の日本の人口は、約600700万人。だが、開墾農地も増え、農法も革新され、作物が豊かになり、徐々に人口が増えていった。だが、その増加と、都市部への人口の集中が、逆に食物の安定供給を欠いていくことになる。また、都市部に家屋が密集をはじめると火災が頻発し、気象変動による飢饉や地震なども相次ぎ、さらには政権の混乱によって、京や鎌倉でさえ、餓死者や被災者が数多く出るという結果を招いていった。平安時代末期は、仏教思想における、釈迦の教説が及ばない「末法時代」の到来という厭世感も広がり、人心は混乱した。

 そこに誕生していったのが、「鎌倉仏教」と一般的に呼ばれる、民衆宗教であった。これらの新しい宗派は、それまで貴族を中心として布教していった既成仏教とは異なり、新興勢力となった武士階層、そして農民から被差別民までを広く対象とした民衆層への布教を主眼とした。

 その中心的教義は、大まかに分ければ、次のようになる。

まず、「他力本願」を強調する「浄土宗」、「浄土真宗」、「時宗」がある。法然(1133年~1212年)を開祖とする浄土宗は、阿弥陀如来を本尊として、ただ「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に命をささげるとの意)を唱えるという念仏行(これを「専修念仏」という)さえ行なえば、来世において極楽浄土に生まれることができる、という教えである。浄土真宗は、その法然の弟子であった親鸞(1173年~1263年)が宗祖となったもので、法然死後、多様な教義が派生してきたため、親鸞の弟子たちは、自分たちこそ本当の浄土宗の末流であることを強調するために「浄土真宗」と名付けた。「時宗」とは江戸時代に付けられた宗派名だが、「専修念仏」とは異なり、信不信に関わらず「念仏」によって成仏できるという考え方で、一遍(1239年~1289年)を開祖とする。「他力本願」とは、ただ仏の力にすがる、ということを指す。念仏系列のこれらの宗派は、一時、武家政権に抑圧もされたが、次第に政権内部にも浸透し、農民信徒も多数擁するようになる。とりわけ親鸞は「無戒」を説き、自ら妻帯し肉食も行ない、念仏行さえ行なえば悪人であろうと極楽往生が可能という極端な教説を説いたが、これがより多くの民衆を信徒にするきっかけにもなった。

次には、いわゆる禅宗系列の栄西(1141年~1215年)が開祖となる「臨済宗」、道元(1200年~1253年)を開祖とする「曹洞宗」である。これらは座禅を組んで「悟り」を得ることを修行の根本とする点で一致し、これまでの「仏教的知識」を学ぶことを強調しなかった。これらの禅宗系列は、主に武士階層に支持され、広まった。

また「真言律宗」は、真言密教の流れを汲む教派であったが、忍性(極楽寺良観/1217年~1303年)の登場によって、鎌倉幕府の支持を取り付けて一躍、鎌倉の中心的教派として登場することになる。彼は、師である叡尊(1201年~1290年)から、当時、差別民として扱われはじめた非人(らい病患者や、土地や生産拠点から逃亡した流浪民を含む)の救済を託されたが、師の意向に従わず、「全民衆の救済」を理由に鎌倉幕府に近づき、幕府権力の庇護を得て勢力を伸ばしていった。そして1267年、極楽寺に入り、伽蘭を壮麗に整備して、最盛期には49もの子院を設けるまでになる。彼は、井戸掘りや架橋、道路の修復など多くの土木事業を手掛け、非人を労働力として用いるが、それは幕府からの支援があってはじめて可能なことであり、いわば土木事業における利権を独占した、ということができる。彼はまた、七道(東海道などの主要官道)における木戸銭徴収権なども得て、経済的にも鎌倉幕府と一体的な権力を持つに至る。したがって、忍性のこうした活動は、非人救済というよりは、幕府行政の代行であり、よって莫大な幕府の援助を得たのである。

そして、もう一つは、念仏の他力本願に対して「自力本願」を唱え、法華経の優位性を徹底して訴えた日蓮(1222年~1282年)の登場である。これは後に、「法華宗」などと呼ばれる宗派を形成していく。日蓮が、他の諸宗と決定的に異なる点は、朝廷の権威にもおもねらず、鎌倉幕府の権力の庇護を断じて受け付けなかったということにある。

安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市小湊)にあった小さな漁村で生まれた日蓮は、1233年に清澄寺(現在の千葉県鴨川市)に入門し、現在の初等教育ともいえる、仏教の基礎や読み書きを習うが、1238年に出家して是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)という僧名を与えられる。以降、比叡山、高野山などの主要大寺院を含む、鎌倉、京、奈良などの各地を遊学し、1253年、清澄寺に帰り、同年4月に諸宗の問題点を指摘した上で、法華経こそ最上の教えであると語り、「南無妙法蓮華経」という題目を正午ごろ唱えて、日蓮を名乗るようになる。これを日蓮の「立宗宣言」と呼ぶ。それは、同地の地頭で念仏の強信者であった東条景信(生没不詳)の怒りを招き、景信は日蓮を殺害しようとさえする。彼は、以降も日蓮を迫害し、1264年には、小松原(現在の千葉県鴨川市)を通りかかった日蓮に襲い掛かり、弟子の鏡忍房と武士の工藤吉隆を殺害。日蓮にも額を斬られ腕を骨折するなど重傷を受けた。

日蓮とその弟子が受けた迫害は、この「小松原の法難」に留まらない。1260年には、日蓮が松葉ケ谷に置いていた布教拠点(草庵/現在の鎌倉市内)に多数の念仏者が襲った1260年の「松葉ケ谷の法難」、1261年の「伊東流罪」、時の執権が日蓮殺害を企てて失敗した1271年の「竜口の法難」、同年秋の「佐渡流罪」、そして農民信徒3人が惨殺された1279年の「熱原の法難」など多数に上る。いや、日蓮とその弟子・信徒らは、つねに生死を問う迫害を受け続けたというべきだろう。この迫害を主導した者は、念仏に帰依していた武士階層、そして幕府と、幕府権力と結託していた忍性である。

日蓮が布教を開始した当時、1257年の鎌倉中の建築物を倒壊させたという鎌倉大地震など、天変地異(気象変動や地震、火災、疫病など)が頻繁に起きていた。そうした中、日蓮は1258年、岩本の実相寺(静岡県富士市)においてすべての経文を再読して思索し、1260年、『立正安国論』を幕府に提出。天変地異が相次いでいる理由は、日蓮の教えを用いず、法華経の教説に背いているからであるとして、法華経の教理に照らして「他国侵逼難(たこくしんぴつなん/他国から侵略を受けること)」と、「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん/内乱の勃発)」が必ず起きる、と指摘した。やがて日蓮が指摘したとおり、1274年、元(げん/モンゴル帝国/蒙古/1271年~1368年)とその属国となっていた朝鮮半島の高麗(918年~1392年)は、1度目の日本侵略を開始。彼ら約3万人の兵は、壱岐の島を全滅させ、九州の博多湾に上陸した。このとき侵略軍は引き返したものの、博多の街は灰燼に帰したという。

1274年、日蓮は佐渡流罪を解かれて鎌倉に帰るが、このとき独裁的な権力を手中にしていた平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな/1241年~1293年)は、日蓮を懐柔して寺社の寄進などを持ちかけ、元の襲来時期を聞き出そうとした。しかし日蓮は、次の襲来は今年中に必ず起きる、と予見した上で、「このまま忍性らに蒙古調伏の祈祷をさせ続けるなら国家は滅びる」と懐柔策を一蹴して、身延の山に入る。日蓮の予見は事実となり、元の襲来は1274年と1281年の2度に及ぶ。また自界叛逆難の予見も、1293年に「平禅門の乱」という内乱が起きて的中し、頼綱は自害に追い込まれることになる。

日蓮の教説は、首尾一貫している。それは当時の日本に存在した多数の仏教経典と中国や朝鮮半島からもたらされた書物を網羅して読み進めた上で、法華経が最第一であると宣言したのであるし、「文証(経文どおりであるかどうか)」「理証(理論的な整合性を持ち道理に叶っているかどうか)」「現証(実践してみてどうなのか)」という基準ですべての教説の判断を行ない、かつ自説の優位性を説いたのである。彼はまた、「妙法蓮華経」という経文の題字そのものの中に、その経典が説く「法」の一切が込められているとして、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで、成仏が今生きている現実の中で可能になる、すなわち尊極の仏性が現れてくることで、全民衆に価値的な生き方が可能になると説いた。さらに「南無妙法蓮華経」という漢字を中心にした本尊を現し、後世の民衆に残した。漢字は、日本の日蓮によって、こうして漢字文化の伝統の中において無限の価値を秘めた存在ともなったのである。

 鎌倉仏教は、こうして、「仏を他方世界に求め、その力にすがる他力本願」としての念仏、一切の価値基準、行動基準、精神規範などを釈迦が説いた教説にではなく自らの内に「悟り」によって求める禅、そして「仏は自身の生命の内に存在するとし、実践によって自らと環境を変革していく自力本願」としての日蓮の教説に、大きく色分けすることができる。忍性らの主導した真言律宗は、新しく起こった宗教運動ではなく、既成宗教が権力と結託して再興したものであり、忍性没後、やがて勢力を失っていった。

  

 鎌倉仏教の登場は、そのまま日本における「近代民衆」の成立と期を同じくしている。1212年に鴨長明(かものちょうめい/1155年~1216年)によって記されたとされる『方丈記』は、鎌倉時代の代表的文学作品だが、そこには立身出世以外の人間の生き方が記されている。

「今、一身を分かちて、二つの用をなす。手の奴(やっこ)、足の乗物、よく、わが心に叶えり。心、身の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。床ふとても、たびたび過ぐさず。もの憂しとても、心動かす事なし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性(ようじゃう)なるべし。何ぞ、いたづらに休みをらん。人を悩ます、罪業なり。いかが、他の力を借るべき」

現代訳:現在、わたくしは、わが身を分けて、二つの働きをしている。その二つは、手という召使いと足という乗物とであって、この二つは、充分に、わたくしの心に適している。わたくしの心は、体の苦労を知っているから、体の苦労をするときは、それを休めてしまうし、体がしっかりしているときは、それを使うのである。その体がだるくて大儀であるといっても、心の方を動揺させることはない。まして、ふだん歩き回り、ふだん労働するのは、健康を増進させることになろう。どうして、むだに体を急速させていようか。自分のことで他人に苦労をかけることは、罪となる行ないである。どうして他人の力を借りてよいものか。※現代語訳=安良岡泰作

  

そこには、手足といった身体が完全に「個」としての「私」の所有物であり、「私」が「私」のために使用するものであり、他人の力をあてにするものではないことが明瞭に示されている。鴨長明は、また山林などの自然の姿、自身が住まう家の大きさや様子なども克明に記しているし、そこには「私」と「他」の区別、「私」自身と「他」としての他者や自然環境に対する客観的な視座が完全に確立されている。つまり『方丈記』には、権威や権力に盲従することなく、「個」として自立した人間としていかに生きるのか、が記されているのだ。

  

こうした「個」として自立をはじめた民衆に対して、鎌倉仏教は誕生した。そうして、新しい「個」としての生き方を鮮明に問っていったのである。中でも日蓮は、現実逃避を促すことなく、困難を極める現実とどのように闘い、「個」としての尊厳を持ち、「自立した人間」として自身と現実を変革し、幸福を勝ち取っていくべきなのかを指し示した。いや、日蓮は、現実との闘いそのもの、自身を変革していく行動そのもの、の中にこそ真実の幸福があることを示していったのである。

日本における近代民衆は、こうして誕生した。そして日蓮によって、一人の民衆の生命は全宇宙の価値とも同じであると捉えられ、「個」の尊厳が、ヨーロパ文明に先んじて明示されるようになるのである。

    

    

  

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